幸福 輝(国立西洋美術館)
2009年の山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品され、その後、一般公開もされた「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」という映画をご存じだろうか。アムステルダム国立美術館と多少の関わりがあったせいだろうか(実際、多くの友人がこの映画に登場していた)、この映画が東京で公開された2年前、筆者はそのパンフレットに「オランダは、おもしろい」というエッセイを寄せたことがあった。
アムステルダム国立美術館というのは、ライクスミュジアムと通称されるオランダ最大の美術館である(「ライクス」というのは、オランダ語で「国立の」という意味)。レンブラントの《夜警》や《ユダヤの花嫁》、あるいは、フェルメールの《牛乳を注ぐ女》が所蔵されていることもあり、アムステルダムを訪れる観光客にとっては、ゴッホ美術館やアンネ・フランクの家と並ぶ観光スポットとなっている。所蔵品の中にはオランダ東インド会社関連のものも多く含まれ、鎖国をしていた江戸時代にこの国と貿易をしていた日本にとっても、縁浅からぬ美術館である。
映画「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」(2010年)広報用ポスター
「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」は、アムステルダム国立美術館の改修工事をめぐる人間模様を描いた映画である。本来は、新しい国立美術館のオープンに向け、宣伝を兼ねた記録映画のつもりだったのではないかと思うのだが、建物の設計変更を求める市民運動に火がつき、事態は全く異なる方向に動いていく。設計を担当したスペインの建築家は、半ば呆然とし、半ばあきらめながら、次々と要求される設計変更に翻弄される。が、とうとう「これほどの変更を要求するのなら、なぜ、コンペで自分たちのプランを採用したのか、こんなに大幅な設計変更が認められるのなら、これはもはや自分たちのプランではない」と怒りをぶちまけるにいたる。
同じように、市民や政治家の度重なる介入に嫌気がさしたのだろうか、「自分の時間をもっと大切にしたい」と、工事の完成を待たずに美術館を去る館長の苦い決断と完成後の新しい美術館に期待を寄せる館員たちの淡い希望とが交錯する中、映画は終わる。現実のアムステルダム国立美術館に話を戻すと、当初の完成予定(2009年)からは大幅に遅れたものの、工事はどうにか進み、来年(2013年)には、新しいアムステルダム国立美術館がオープンするようである。
美術館建築に限らないが、建築は依頼主がいてはじめて成り立つ営みである。この点で、建築は他の芸術とは少し異なる。絵画や彫刻は、必ずしも依頼主がいるとは限らないからである。もっとも、依頼主の有無とは無関係に、画家が自らの意思で作品を制作するようになるのは19世紀以降のことに過ぎず、絵画や彫刻が建築の装飾として機能していた時代、すなわち、ルネサンスやバロックの時代なら、絵画でも事情は建築の場合と全く同じだった。画家も依頼主である王侯貴族や聖職者の横やりや気まぐれに悩まされ、右往左往する存在だったのである。絵画が壁画という形式から離れ、額縁に囲まれたタブローとしての自立性を獲得し、徐々に芸術としての絵画の自立的価値が語られるようになって、はじめて、画家は依頼主の制約から解放されることになったのである。
しかし、こうした長い道のりの果てに勝ちとられた自由は、画家に何をもたらしたのだろうか。無論、創造の自由がかけがいのないものであることは言うまでもない。あらゆる権威から距離を置き、白いカンヴァスが自由な創造の場となることは何にもまして重要なことである。しかし、皮肉なことに、20世紀後半、芸術家たちは絵画という平面芸術から次第に離れていくようになってしまった。西洋美術の中心に君臨してきた絵画は、まるで、創造の自由を獲得したことの代償として、その長い歴史を閉じようとしているようにさえ見える。
絵画のこのような歴史を考えると、建築家の自由(あるいは不自由)のあり方は興味深い。建築家は依頼主の希望に沿うことが前提である。建築法規を守るのは当然として、それと同時に、発注者側から寄せられるさまざまな要望に応えることが求められる。著名な建築家であっても、その建物が果たすべき役割や周囲の状況を無視した建造物をつくることはできない。
例えば、国立西洋美術館(本館)はル・コルビュジエ晩年の設計になる歴史的建造物である。現在の美術館建築の基準からすれば、その設計にはあまりにも不具合が多いし、この著名な建築家は耐震問題を一顧だにしなかった(そのため、阪神淡路大震災の後、免震工事がおこなわれた)。しかし、他方、彼はそこで展示されることになる松方コレクションの規模と性格とを充分に考慮した小さな美術館としての理想を追及し、さらに、上野公園を美術館だけではなく、コンサートホールなども含む文化ゾーンとする設計案を提案している(国立西洋美術館の完成後、その南側に東京文化会館が建設されたことは、部分的にではあれ、ル・コルビュジエの原意図が実現されたものと言えるだろう)。設計当時、すでに世界的名声があった建築家に対し、極東の依頼主が次々と設計変更の要求を出すことはなかったが、やはり、文部大臣名での設計変更の依頼がなされている。冒頭で紹介した「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」のスペインの建築家とル・コルビュジエとの間に、それほど大きな違いはないのである。
国立西洋美術館(本館)
外部からの時に理不尽な要求にさらされ続ける建築家は、しかしながら、画家とは異なる。彼らはパトロンたちと袂を分かち、制約のない建築の設計に向かったりはしなかった。これは当然のことかもしれない。しかし、「創る人」である画家や建築家と「創らせる人」であるパトロンとの関係を比較した時、絵画と建築、それぞれの創造の自由については不思議な感慨をもたざるをえない。建築家が受けとめなければならないさまざまな制約は、あるいは、単に負性のものではなく、また、画家が自由を獲得したのは、実は、制約を失うことだったのかもしれない。