地域の人々の記憶を連綿と継承する木造校舎

東北大学工学部建築学科同窓会 杜春会ミニ通信投稿
東北大学工学部建築学科23回生 藤原 薫

私は建築学科23回生の藤原薫という者です。福島県いわき市の生まれで、現在は妻の故郷山形市で20年ほど設計事務所を営んでいます。学生時代には構造力学研究室(和泉正哲先生)で学んだのですが、当時和泉先生は今でいう免震と制震に関する先駆的な研究だけでなく実践的な構造設計の両方をされており、学生の私はとても大きな刺激と影響を受けました。研究の道へ行きたかったのですが、もう一方の構造設計の道を歩むことになりました。

この度、全長93mにもおよぶ旧長井小学校第一校舎の免震改修が評価され、第40回東北建築賞作品賞を受賞しましたが、耐震診断から改修設計・工事完了まで5年を要し、多くの課題で苦しんだ日々を思うと感慨深いものがあります。免震補強設計の審査委員会は免震のパイオニアである和泉正哲委員長、制振構造の先駆者である川股重也副委員長(東北工業大学名誉教授 3回生)そして前田匡樹東北大教授、三辻和弥山形大学教授(41回生)という錚々たるメンバー構成でしたが、二度も審査を受けることになりました。恩師と審査で相対するのは楽しみでもありましたが、学生のように大いに緊張するものでもありました。審査終了後に川股先生が「完成するのを楽しみにしていますよ。」と仰っていただきましたが、残念なことに先生は完成を見ずに2018年2月に逝去されました。

さて山形県長井市は県内でも有数の豪雪地帯ですが、かつては酒田港から最上川を経由した舟運の終着港として栄えた港町でした。中心市街地に位置する長井小学校の中で唯一、木造校舎で残った第一校舎は昭和8年に建設された長井市のシンボル的な建物であり、平成21年には国の登録有形文化財に登録されました。東京から山形に移ったばかりの頃の私にとっても樹々の間から垣間見える木造校舎は何故かとても懐かしさを覚える印象深い建物でした。平成27年に実施した耐震診断の結果、大幅な耐震性能不足が明らかとなり、即座に使用禁止となり、小学校としての役目を一旦終えることになりました。

その後、そのまま小学校として耐震改修を行う方向で設計が進みましたが、財源のめどがたたず計画が頓挫しました。1年を掛けて取壊しか保存・再生かという議論が長井市、議会、卒業生有志の方々の間でなされた結果、建設後82年に亘り市民にとって大切な記憶を継承するこの校舎を保存・再生すると長井市が決断しました。財源のめどがたったのです。長井市は、建物をただ単に残すのではなく建物を利活用するという大方針を掲げ、第一校舎は学校施設から「学びをテーマとした地域の交流施設」に生まれ変わることとなりました。これが二度も審査を受けることになった経緯です。

第一校舎の改修は大きく不足する耐震性能だけでなく建物を有効利用するための建築基準法上の用途変更に対応するという、技術とコストの両面において課題が山積みでした。それに加え建物の老朽化も進んでおり、更に繰り返された部分的な内部改修によりまとまりに欠ける印象を受ける状況となり、それらを原型に近い形に再生する必要もありました。
「建物が地域のために利活用できること」「安全・安心で、快適な建物とすること」「人々の記憶を継承すること」をテーマとして設計に取り組みました。免震レトロフィットの採用や大規模木造を可能とするための防耐火設計など、それまでに培った技術と経験を駆使して、建物の必要性能を確保し、文化財としての校舎の今の姿をできる限り残し、壁や天井などを原型復帰、更に老朽化改修や断熱改修を施す計画としました。2階は主に貸事務所とカルチャースクール、1階はギャラリー、カフェ、レストランの用途ですが、元の姿を損ねないように細心の注意を払いました。

基本設計段階から、長井市のシンボルである旧校舎には地域の職人の力を活かすことを第一に据えて工事計画を立案しました。地元のゼネコンが主導した免震工事、弘前城の曳家経験のある地域の曳家業者による建物のジャッキアップ、地域の大工による木材の腐朽補修も含む大規模木造の木工事など、国内でも極めてめずらしい工事を地域の力で進め、耐震診断開始から5年を超える歳月を経て建物完成を無事迎えることができました。
新しく生まれ変わった施設は2019年4月にオープンし今年一周年を迎えました。来館者数は7万2千人を超え、当初の予想を大きく上回っています。世代を超えて記憶を継なぐ建物は地域の人々に安らぎと豊かさを与えます。そのような建物を残す事業に関われたことを誇りに思い、今後も歴史的な建物の保存・再生に貢献して行きたいと考えています。

2020-09-23T16:24:43+09:002020年9月23日|Tags: |
Go to Top