正月に書斎のキャビネットを整理していたら、20年前に知り合ったトルコ人cahit kocaman(ジャヒット コジャマン)からの手紙と写真が出てきた。 Column9の「私と英語」で取り上げた彼であり、記事には当時の写真が載っている。 彼が結婚するまで何度か手紙や電話で連絡が取れていたのだが、結婚後は親の家から独立したためか音信不通となってしまった。
さて続きだが、もしかしたらとインターネットで彼の名前を検索したところ、いくつかヒットした。 その中に、彼のFacebook画面があった。 そこに彼の小さな顔写真があったのだが、すぐに彼とは判断できなかった。私の知っている彼は黒髪で口ひげがあったのに、写真の彼は白髪で口ひげもなかったからである。 しかし、なんとなく顔の輪郭と目が似ているので、彼の住所や経歴を調べてみたところ、九分九厘彼に間違いないと判断できた。 「あなたは私の知っているジャヒットではないか。」と彼のFacebokにメッセージを送った。 数日たっても返信は来なかったのだが、ある日心待ちにした返信が来た。「そう。 私はあなたが知っているジャヒットです。お久しぶりです。」と書いてあり、久しぶりに幼友達にでも会ったようなとても懐かしい気持ちが胸の内から湧いてきた。
彼は首都アンカラ市の防災担当であり、1991年から1992年の2年間JICAメンバーとして来日し、筑波にある建築研究所で学んでいた。 短期の企業研修として、彼は代々木にあったフジタ本社設計部に耐震設計の勉強に来たのだが、それが私と彼との出会いであった。 彼の言葉で印象的なのは、「地震による建物の崩壊を防ぐ技術を私は理解することができる。 理解できてもできないことがある。 国民の命の重さは、その国の経済力で決定されてしまう。」である 。つまり、日本の進んだ耐震設計技術と建設技術は素晴らしいが、それを発展途上国のトルコ(大帝国オスマントルコに対して失礼な言い方になるのだが)に経済力の点から導入できないということを言いたかったのである。 この点については、恩師の和泉正哲先生(東北大学名誉教授)から同じように言われたことがある。 「建物の耐震性は国の経済力によって決定される。」と。
私は画家の故澤田正太郎氏(新国劇創設者の澤田正二郎の長男)とは彼の絵を買ったことでお付き合いがあった。 家族全員がトルコを好きだということがわかっていたので、ジャヒットが喜ぶのではないかと、駒込にあった澤田家に彼を連れていったことがある。 家族の皆さんはトルコ一帯を旅行したことがあって、特に娘さんはトルコ語が堪能であった。ジャヒットが「今日は英語を使わないぞ。トルコ語で行く。藤原さん、何を話しているかわからないだろう。」と嬉しそうに言っていたのを今でも覚えている。 トルコを好きな日本人が結構いるということ、トルコ人が親日家であるということも、この時澤田氏の家族から教えてもらった。
国立にある自宅に2度ほど彼を招いて会社の同僚も交えて食事をしたことがあったが、私の一人娘はその時小学生低学年であった。 私と妻は英語と片言のトルコ語で彼と話をしたのだが、娘には強烈な印象だったようで外国と外国語に興味を持つきっかけとなった。今、成人となった彼女は英語を自由に操って、仕事と海外旅行を存分に楽しんでいるようである。最後に、ジャヒットからのメッセージの一部を披露しよう。
You saw my picture with white hairs. Do you know why? Because I had come from grinder when this photo was taken My hairs were smeared on flour Anyway, very long time passed and we are getting older year by year. But Spirit is the same, isn’t it? I remember beautiful flowers which you sent for my wedding party . I couldn’t express my gratitude for a long time. Thank you very much my friend. After 18 years, now, I have two children. My son is 16 years old. My daughter is 4 years old. Dear Kaoru see you again as soon as possible.
今、私は彼との再会を大切にしていこうと思っている。