幸福 輝(国立西洋美術館)
ピーテル・ブリューゲルは16世紀フランドルの画家である。現在のベルギーに相当するフランドル地方は、15世紀のヤン・ファン・エイクから17世紀のルーベンスまで数多くの優れた画家を輩出し、ルネサンスからバロックの時代はイタリアと並ぶ絵画の中心地だった。ブリューゲルはベルギーの国民的画家のひとりであると同時に、美術史においてはドイツのデューラーとともに北方ルネサンスの双璧とされる。
その代表作である《雪の狩人》が美術の教科書に掲載されていることもあり、わが国でもブリューゲルのファンは多い。ウィーン美術史美術館はブリューゲル絵画の宝庫として有名だが、ブリューゲルが展示されている部屋には必ずといってもいいくらい日本人の姿が見られる。また、数年前の冬、ナポリのカポディモンテ美術館にブリューゲルの《盲人の寓意》を見に行った時も、観光客のいない閑散とした美術館で、日本人とおぼしき老夫婦がこの絵の前で静かに話し込んでいたのが印象的だった。東北生まれの筆者にとってもこの画家が描く農民たちや田舎の雪景色はごく自然に親しいものとなり、ブリューゲルは最初に覚えたヨーロッパの画家のひとりとなった。
ピーテル・ブリューゲル《雪の狩人》(1565年)
ウィーン美術史美術館
美術史を学ぶようになってからも、ブリューゲルはいつも筆者のそばにいたように思う。けれども、ブリューゲルを研究テーマにしたいという気持ちはなかなか生まれなかった。それにはいろいろな理由があったに違いないが、今になって思うと、当時の筆者にはブリューゲルのある部分に惹かれながら、強くこれに反撥する気持ちもあったような気がする。
ブリューゲルの絵画はふたつの系統に大別される。ひとつは「農民画家ブリューゲル」の作品群で、農民たちの日々の生活を描いた風俗画的作品や庶民の生活の知恵とも言うべき諺を主題にした寓意画風な作品がこれに含まれる。そして、ふたつ目が「風景画家ブリューゲル」による作品群である。無論、このふたつは截然と線引きされているわけではなく、どちらに分類していいのかよくわからない作品も少なくない。農民の日常が描かれている点では、《雪の狩人》も最初のグループに属すのかもしれない。しかし、夕暮れの山道を家路につく狩人たちの後ろ姿を、雪を頂く険しい山岳景観との対比のうちに描いたこの作品は、むしろ、第二のグループに属すと考えたほうが良さそうだ。
西洋の風景画には傑作も少なくないが、ブリューゲルの風景画の前ではどの作品も色褪せてみえるかもしれない。それほどブリューゲルの風景画は見事なものである。特に変わった景色が描かれているわけではないが、人を寄せつけない厳しさとたまらなく懐かしい親近感が同居するブリュ-ゲルの風景描写には思わず引き込まれてしまう。そこには静かに感情をかきたてる何かが息づいている。確かに、ブリューゲルは西洋風景画のひとつの到達点だったのである。
一方、「農民画家ブリューゲル」の作品には、「到達点」とはおよそかけ離れたようにしか見えない描写が溢れている。主役は野卑な農民たちである。縁日の屋台で酔っぱらった彼らは女を抱きかかえ、仲間と喧嘩を始める。よく見ると、ゲロを吐く者や放尿する者さえもいるようだ。人間喜劇的描写なのかもしれないし、人間の放縦を描くことにより、逆に節度や倫理を教え諭しているのかもしれない。しかし、年を重ねた今ならともかく、許容力の乏しい若者にとってこのような描写は容易に受け入れられないものだった。別に、筆者がモラルの高い人間だったわけではないし、上品な人間だったわけでもない。ただ、あまりに俗っぽい田舎の描写にわけもなく苛立ち、抵抗したのだろう。ブリューゲルは近くにありながら、遠い存在でもあったのである。
筆者が研究対象に選んだのは、同じフランドル地方の画家ではあったが、ブリューゲルよりさらに百年も前のヤン・ファン・エイクだった。彼はブルゴーニュ公国の宮廷画家である。ブルゴーニュ・ワインで有名なあのブルゴーニュである。ブルゴーニュはフランスで、フランドルはベルギーだから、このふたつに何の関係があるのかと訝しく思う人がいるかもしれない。しかし、フランドル絵画の起源は、実はブルゴーニュにあった。
ヤン・ファン・エイク《宰相ロランの聖母》(1435年頃)
ルーヴル美術館
パリからTGVで東南に向かうと、1時間半でディジョンという町に着く。マスタードの産地としても有名なディジョンは、現在もなおブルゴーニュ地方の中心都市である。中世末期、ディジョンを中心としたブルゴーニュ地方は次第にその版図を拡大していく。地図を開いてみればすぐにわかるのだが、ブルゴーニュ地方が北西に伸びていき、地図上部のベルギーと合体すると、パリを北東部から囲むような大きな国ができ上がる。これがブルゴーニュ公国であり、15世紀にはヨーロッパの一大勢力として大いに繁栄した。このブルゴーニュ公国の宮廷画家として、ブリュージュやゲントで活動したのがヤン・ファン・エイクだった。
ヤン・ファン・エイクの作品に農民は登場しない。ルーヴルに所蔵される彼の傑作のひとつである《宰相ロランの聖母》には、聖母とこれを礼拝するブルゴーニュ公国の辣腕政治家ニコラ・ロランが描かれている。彼らが纏う毛織の衣装には毛皮の縁飾りや刺繍の細工が入り、大理石の床装飾やステンド・グラスの窓が高貴な場を演出する。日々の生活とは隔絶された神の国こそがヤンの活動する舞台であり、それは農村を描いたブリューゲルとは対極的な世界だった。「油彩画の発明者」と言われるヤンの作品に見られる入念な細密描写には、一度とりこになると離れられない魔力が潜んでいる。ヤンの「神の手」にからめとられた者に、ブリューゲルが入ってくる余地は残されていなかったのかもしれない。ブリューゲルはいつのまにか筆者の前から遠ざかっていった。
けれども、ブリューゲルとの縁は切れてはいなかったのだろう。美術館に勤め始めて10年近くがたった時、ブリューゲルと再会する機会が訪れたのである。そのブリューゲルはプラハにいた。