幸福 輝(国立西洋美術館)
今日のヨーロッパで、イタリアはどうも分が悪い。ファッション、グルメ、サッカーなど少なからぬ分野で世界をリードするイタリアではあるが、経済の低迷が伝えられて久しい。都市国家の伝統が強かったこの国は近代国家としての統一が遅れ、他のヨーロッパ諸国の後塵を拝することになった。イタリアの近代化を妨げた最大の原因は、過去のあまりにも偉大な自国の歴史そのものにあったのかもしれない。
15~16世紀のイタリアには、古代文化の復興を旗印にしたいわゆるルネサンスが生まれた。一般には絵画や彫刻の傑作によって知られるルネサンスだが、実際には、哲学や科学、また、建築を含むさまざまな学術分野での刷新、さらには社会改革まで含んだ大きな近代化運動でもあった。ラファエッロやミケランジェロによって装いも一新されたヴァチカン(ローマ教皇庁)の威光もあり、16世紀になるとイタリアの名声は全欧に及んだ。各国の知的エリートはこの新しい文化を学ぶためにイタリア、とりわけ、ローマをめざした。以来、ローマはヨーロッパの中心であり続けた。グランド・ツアーの18世紀イギリスも、気鋭の若手画家にローマ賞を与え続けた19世紀フランスも、ローマの栄光に連なろうとしたのである。
ネーデルラントでも事情は変わらない。1500年を境にたくさんの学者や文化人がイタリア詣を繰り返した。16世紀の半ばに修業を終えた若きブリューゲルも例外ではなかった。ところが、ブリューゲルのイタリア旅行には腑に落ちないところが多い。通常、旅行を証拠立てるのは旅行記や書簡、あるいは、画家の場合なら、その土地での作品制作である。実際、イタリア滞在が確認されているブリューゲルの同輩たちの場合、そのような文書や作品が残されている。ところが、ブリューゲルの場合、状況証拠は幾つもあるのだが、どれも確実性に乏しい。そして、彼のイタリア滞在を一層ミステリアスなものにしているのは、この画家の作品に「イタリア風」を認めることができないという決定的事実である。ブリューゲルは古代遺跡も描かなかったし、神話主題の作品もない(厳密に言えば《イカロスの墜落》があり、また、古代に関連する作品がないわけではないが、議論が錯綜するのでここでは触れない)。彼の作品は風景と農民風俗、要するに、イタリアとの接点を感じさせないものに限定されている。ブリューゲルは本当にイタリアに行ったのだろうか。そして、なぜ、イタリアに染まらなかったのだろうか。
これは難問である。近代の画家の場合なら、イタリアが意にそぐわなかったとか、海外に出たことで一層自国の伝統を認識したとかの説明が可能かもしれない。事実、かつてのブリューゲル研究者たちもそのような説明をおこなっていた。しかし、ブリューゲルにそうした近代的芸術家像を当てはめるのは間違いだろう。当時、絵画はまだ近代的意味での芸術作品ではなく、画家は創作活動に邁進する芸術家ではなかった。だから、ブリューゲルがイタリアに留学しながらイタリアと距離を置いたとすれば、彼にこのような選択をさせたなんらかの社会的要因があったはずなのである。
現代のわれわれにとって、絵画は芸術であり、芸術は一般社会から切り離された特殊なものであるかのようなイメージがある。しかし、絵画も商品であると考えれば、画家だけが商品制作に関わったと考えるのは間違いである。絵画にも消費者がいたし、また、消費動向を分析して画家に一定の方向を指示した仲介者もいた。とすれば、ブリューゲルの絵画を理解するためには、彼の絵画を消費した側にも目を向けることが必要である。ブリューゲルの風景や農民風俗といった画題選択は、おそらく、こうしたマーケットの動向と無縁ではなかっただろう。ブリューゲルの注文主に関する史料はほとんどないのだが、幸いなことに、ブリューゲルの代表作である月暦画連作に関する史料が僅かながらも残されている。
それによれば、ブリューゲルの月暦画連作はニコラース・ヨンゲリンクというアントウェルペンの大商人のために制作された。郊外に建てた別荘を飾るべく、彼はブリューゲルにフランドルの農村を主題とした作品群を描かせたのである。ところが、この別荘のことを調べているうちに、思いがけない事実が明らかになった。それは、ヨンゲリンクが同じ別荘のためにフランス・フローリスという画家の連作を、しかも、ふたつの連作を依頼していたのである。フローリスが描いた連作は「ヘラクレスの偉業」と「自由学芸」を主題としていた。どちらも、直接イタリアにつながる寓意的主題である。
フローリス《学芸の目覚め》(連作「自由学芸」より)
プエルトリコ、ポンセ美術館
ブリューゲル《小麦の収穫》(連作「月暦画」より)
ニューヨーク、メトロポリタン美術館
フローリスはブリューゲルよりひとつ上の世代の画家で、1550年から60年代にかけてのアントウェルペン画壇を代表する画家である。ブリューゲルがイタリアからアントウェルペンに戻ったのは1553年頃と推定されている。つまり、フローリスはブリューゲルが画家としての第一歩を踏み出そうとするまさにその時期に高く聳える存在であった。彼はミケランジェロに心酔し、また、ラファエッロに学んだ甘美な女性裸体像を得意にしていた。要するに、ブリューゲルとはおよそ正反対の画風をもつ画家である。ブリューゲルの月暦画連作とフローリスのふたつの連作がどのように関連していたのかは判然としない。しかし、同じ別荘に対照的な作品群が並べられていたことは実に興味深い。やや安易な言い方かもしれないが、当時、イタリア文化は貴族(=知的階級)に、フランドル文化は民衆に対応していた。つまり、前者を代表するフローリスと後者を代表するブリューゲルとがヨングリンク邸では共存していたことになる。
ヨンゲリンクは商人であり、まるで16世紀フランドル文化を展望するかのような装飾プログラムを演出する立場ではなかったかもしれない。しかし、ブリューゲルは「イタリアVS フランドル」の緊張関係を意識せざるをえなかったに違いない。フランドル文化に傾いていくことは知的階級からの離脱を、フローリスのような社会的成功者への道を断念することを意味したかもしれない。月暦画を制作するブリューゲルにはこのような葛藤があったに違いない。この葛藤をもう少し広い文脈で考察することは、それまでのブリューゲル論に欠けていたものだった。こうして、少しずつ書いた原稿はやがて500枚となり、1冊の本となって刊行された。
幸福 輝『ピーテル・ブリューゲル―ロマニズムとの共生』
ありな書房 2005年
ブリューゲルがイタリアに何を学び(あるいは、何を学ばず)、フローリス的なイタリア・モードをどのように見ていたのか、そして、風景画と農民風俗画とを描き続けることにどのような意義を見出していたのかは、結局、はっきりとはわからない。だが、イタリア主義を標榜する当時のフランドルの知的階級が潜在的にもっていたある種の劣等感を、ブリューゲルの月暦画連作が払拭したことは間違いない。この頃から、フランドル地方にはフランドルの文化と歴史とを探り、フランドル絵画を称揚する動きが始まるからである。ようやく、フランドル絵画はイタリアの呪縛から解き放たれようとしていた。画家の王としてルーベンスが全欧に君臨するためには、「イタリアVS フランドル」をめぐるブリューゲルの葛藤が必要だったのかもしれない。