幸福 輝 (国立西洋美術館)
かつて、パリは「芸術の都」だった。百年前、ある詩人は「ふらんすに行きたしと思えども、ふらんすはあまりにも遠し」と嘆いたが、これは極東の文学者までも芸術の中心だったパリへ強く憧れていたことを伝えている。ところで、この時期のパリが体現する芸術は、近代都市の新しい生活と哲学に基礎を置いた「近代(モダン・)芸術(アート)」だった。バルビゾン派のような例外もあったが、パリに集まった芸術家たちの念頭にあったのは農村風景でも山岳景観でもなく、都市で生活する新興(ブルジ)市民(ョワジー)たちの新しい生き方だった。印象派からピカソやマティスまでのパリはブリューゲルとはおよそ対照的な世界だったのであり、ここにブリューゲルの席は用意されていなかった。そして、これはなにもこの時代のパリに限ったことではなかった。17世紀以来、パリにはブリューゲルを遠ざけるような文化が育っていたのである。
西洋美術史の世界で、フランスは決して先進国ではない。ルネサンスの時代、フランスには見るべき美術はあまりなかった。専門家を別にして、「フランス・ルネサンス」の代表的画家の名前を言える人はまずいないだろう。17世紀になり、中央集権国家の骨格が整ってくるにつれ、ようやくフランスの美術は国際的なレベルになってくるのだが、それでも、17世紀フランス絵画を代表するふたりの画家、プッサンとクロード・ロランはともにその生涯をローマで過ごしている。17世紀になってもなお、美術の世界でフランスは発展途上の国だったのである。
ヤン・ブリューゲル《イッソスの戦い》
1602年 ルーヴル美術館
フランスにおける美術の大きな展開とこの国が大国のひとつとして歴史の表舞台に登場する過程とが軌を一にしていたのは、フランスの美術にとって重要な事実である。17,18世紀のフランスでは美術アカデミーが整備されていくが、その美術はなによりフランス国家の威信に奉仕するものでなければならなかった。フランスにおける美術の進展は、きわめて国家主義的なものだったのである。このような国で古典主義がその基調となったのは当然の成り行きであり、イタリア・ルネサンス美術を支えた人文主義的絵画論の一層の体系化がすすめられた。こうした美術において、定式からの逸脱は疎まれ、品格に欠けるような表現は抑制された。同じフランドル絵画の中でも、あるものは積極的に求められたが、意図的に遠ざけられたものもあった。イタリア的規範を完璧に身に着けたルーベンスやヴァン・ダイク、あるいは、ルーベンスと親交があり、「上品な」風景描写を得意にしたヤン・ブリューゲル(ブリューゲルの次男)は明らかに前者の画家とみなされ、すでに17世紀、ヤン・ブリューゲルの傑作である《イッソスの戦い》がフランス国王のコレクションに入っている。しかし、ブリューゲルはどうも後者に属す画家だったようだ。
こうして、ブリューゲルは次第にパリとは縁遠くなっていくのだが、17世紀以降のパリでブリューゲルが忘れ去られていくのにはもうひとつ別な理由もあった。ブリューゲルの在世時、フランドル地方はウィーンのハプスブルク帝国が治めていたため、ブリューゲルの重要な作品も早くにウィーンに運ばれてしまった。しかし、ひとりの画家の重要な作品の大半がヨーロッパの東端に移動してしまったことは、ブリューゲルという存在が実質的に西ヨーロッパから消えることを意味した。現在では、ブリュッセルを中心に、ロンドン、マドリード、ベルリン、ミュンヘンなど西ヨーロッパの重要な絵画コレクションにはブリューゲルの作品が所蔵されている。しかし、それらの大半は19世紀末期以降にそれぞれの美術館の所蔵品になったものである。ルーヴルが所蔵する唯一のブリューゲル作品である《乞食たち》も、古くからフランス王家のコレクションに所蔵されていたものではない。これは、1892年にある個人所蔵者がルーヴルに寄贈したもので、だから、やや大げさに言えば、17世紀から19世紀までフランスの美術界にブリューゲルは存在していなかったのである。19世紀後半にオランダやベルギーの美術館や教会を自分で見て回り、優れた美術紀行を著したウジェーヌ・フロマンタンの『オランダ・ベルギー美術紀行』(原著は1876年、岩波文庫に邦訳がある)にも、ブリューゲルに関する記述はほとんどない。フロマンタンはブリューゲルのことをあまり知らなかったのではないだろうか。
アルフレッド・ステヴァンス《画家のアトリエ》
1869年頃 ベルギー王立美術館
フランス革命以降も、パリでブリューゲルが受け入れられることはなかった。新古典主義やロマン主義、また、オリエタリスムのどこにもブリューゲルを積極的に受け入れる要素はなかった。クールベやマネがオランダ美術に目を向けたことはよく知られているが、彼らの関心も17世紀にとどまっていた。その意味で、アルフレッド・ステヴァンスが世紀後半に制作した《アトリエの画家》は面白い。ブリュッセル出身でパリに長く住み、マネとも親交があったこの画家は、その作品の多くに当世風な着飾った婦人を描くのを得意にした。その意味で、ステヴァンスは「近代(モダン・)芸術(アート)」の画家であり、ブリューゲルとは無縁の作風だった。ところが、自分のアトリエをモティーフにしたこの作品で、ステヴァンスは背景の壁にブリューゲルの《ベツレヘムの戸籍調査》を描いている。ステヴァンスにどのような意図があったのかはわからないが、画面手前でモデルとなっている都会風なドレスをまとった女性の姿とブリューゲルとの組み合わせは、まるで都市文化と農村文化との和解の象徴のようにも見える。画面の中心を占めるモデルの頭部を囲むようにブリューゲルの作品が描かれているのは、明らかに制作者の強い意図が感じられるだろう。この作品は、ブリューゲルが少なくとも一部の画家や批評家たちによって注目され出していたこと、また、パリという都会に同化した画家でありながら、自国の画家ブリューゲルに愛着を抱いていたのであろうステヴァンスの両義性が示されている点で興味深い。
ブリューゲル(?)《イカロスの墜落》
ベルギー王立美術館
19世紀末、ブリューゲルはまだなじみの薄い画家であった。しかし、シュルレアリストたちによってボッスが賞賛され、その後継者としてブリューゲルにも注目が集まるようになり、また、詩人オーデンがブリューゲルの《イカロスの墜落》を題材に詩を書き、そこに描かれた人間の不条理を語ったことで、ブリューゲルは「20世紀的画家」として広く知られることになった。「近代(モダン・)芸術(アート)」がその輝きを失い始め、「近代(モダン・)芸術(アート)」がないがしろにしてきたものへの関心が再び高まっていった時、ブリューゲルは静かに自分のあるべき場所に戻ってきたのかもしれない。「20世紀的画家」としてのブリューゲル論には教えられることも少なくないが、修正されるべき点も多い。拙著『ピーテル・ブリューゲル―ロマニズムとの共生』はまさしくこの観点から書かれたものだった。
現在も、16世紀フランドル絵画はルーヴル美術館の北方絵画の中で最も層の薄い分野である。相変わらず、パリでブリューゲルとその時代の美術は所在なさげに見える。しかし、近年、リールで大きな「16世紀フランドル絵画展」が開催され、パリでも「ブリューゲル一族展」がおこなわれた。また、ブリューゲル版画の出版者であるヒエロニムス・コックの大がかりな版画展もパリで開かれた。少しずつ、状況は変化しているのかもしれない。何度も書いてきたように、ブリューゲルの代表作は大きな板絵であり、展覧会のために他の美術館へ貸し出されることはない。となると、代表作を集めた大きなブリューゲル展はウィーンでしかできないことになるのだが、2019年、歿後450年を記念するブリューゲル展がウィーン美術史美術館で準備されているようだ。そろそろヨーロッパへの長旅はつらい年齢になりつつあるけれど、2019年にはウィーンに行ってみたい気がしている。ルーヴル美術館のブリューゲルにも、ウィーンで再会できるかもしれない。
*昨年9月から隔月に連載してきました「随想ブリューゲル」は、今回をもって終了といたします。機会がありましたら、また、他のテーマでお目にかかりたいと思います。お読みいただいた皆様にお礼を申し上げます(幸福)。