幸福 輝 (国立西洋美術館)
恩師のM先生が危篤であるとの知らせを受けたのは、仕事でミュンヘンにいる時のことだった。先生はドイツ・ルネサンスの画家デューラーの専門家として知られ、若き日、ミュンヘンに学んだ。その同じミュンヘンで先生の危篤の報に接したことに、不思議な因縁を思った。その数日後、ミラノで先生の訃報に接するのだが、そこで思いがけない出会いが待っていた。ミラノではイタリア美術を専門とする同僚のW君と版画商を訪れることになっていた。当然のことだが、どの画商も自分の国の美術に強い。イタリアの画商はイタリア美術を中心に扱うのである。だから、版画商を訪ねるといっても仕事は若い友人に任せ、こちらはお付き合いといった軽い気持ちだった。ところが、そこでブリューゲルの版画連作「大風景画」が、しかも、12点揃いで見つかったのである。驚きだった。これはブリューゲル風景版画の代表作であり、16世紀フランドル風景画の歴史を飾る金字塔である。1990年に企画した「ブリューゲルとネーデルラント風景画」以来、筆者は20年近くの間、この作品を探し続けていた。奇跡といっては大袈裟だが、亡くなった先生が引き合わせてくれたとしか思えない出来事だった(数か月後、国立西洋美術館はこの連作を購入した)。
ヤンおよびリューカス・ドゥテクム(ブリューゲルの原図による)
《聖ヒエロニムスのいる風景》(連作「大風景画」より)
ヤンおよびリューカス・ドゥテクム(ブリューゲルの原図による)
《休息する兵士たち》(連作「大風景画」より)
ブリューゲルは画家である。しかし、彼は絵画を制作する以外にたくさんの素描と版画を残した。これは珍しいことではない。ほとんどの画家には多数の素描が残されている。また、版画を手がけた画家も少なくない。ただし、ブリューゲルの版画には少し注意が必要だ。西洋版画(あるいは、むしろ、近代版画といったほうがいいかもしれない)の場合、例えば、レンブラントやピカソ(あるいは、駒井哲郎や棟方志功でもいい)の版画は、下絵を描く人物と版の制作者は同一である。つまり、レンブラントは自分でデザインを考え、それを素描という形で具体化し、そして、それを自分自身で版面に刻んだのである。ところが、ブリューゲルは版画の下絵作者として版元に雇われた。すなわち、ブリューゲルの版画というのは、ブリューゲルの関与はデザイン(図柄)だけで、版をおこす作業は別の専門の彫版家がおこなったのである。簡単に言えば、北斎や広重と同じように、ブリューゲルも下絵にのみ関わる絵師だったのである。絵師、彫師、刷師による分業的な制作過程から生まれるからといって、北斎の浮世絵を貶める人はいない。しかし、17~18世紀のヨーロッパでは複製手段としての版画が発展し、あまりにも分業化が進んだため、19世紀になると、次第に、複製版画、すなわち、他人の図柄を版におこした版画は芸術性に欠けたコピー的作品と見なされるようになった。こうして、ブリューゲルの版画も、かつては、史料的価値は高いが、版画作品としてはデューラーやレンブラントとは比較にならない劣等的地位を与えられてきたのである。
「複製」という言葉には「創造」の正反対のニュアンスが含まれる。特に、20世紀は他人とは違うことをおこなうことが個性であり、模倣から創造は生まれないという考えにとりつかれ時代だったから、複製版画は否定された。しかし、そのような単純な断罪は誤りではないかと人々が考えるようになり、複製版画に潜む「創造性」が議論されるようになって、ようやくブリューゲルの版画にも再び光があてられるようになったのである。ブリューゲルの下絵に基づいて「大風景画」を彫版したのは、ヤンとリューカスのドゥテクム兄弟である。エングレーヴィングで補強された彼らのエッチングは、ごつごつした険しい岩山や未開の大地の粗さといったものを見事に表現している。
ブリューゲルが活動していた16世紀半ばのアントウェルペンは、ヨーロッパで最大の都市のひとつだった。そして、この町は世界最大の出版都市でもあった。版画は紙を媒体とすることもあり、版画と書籍の出版とは密接な関連があった。文章と挿絵との関係を考えても、両者の深い関係は理解されるだろう。当時、アントウェルペンで最大の出版業としてよく知られているのが、フランス出身のクリストフ・プランタンと娘婿ヤン・モレトゥスによるいわゆるプランタン=モレトゥスである。彼らは多言語聖書に始まり、動植物図鑑や解剖図など高品質な挿絵を伴った博物学的書籍を次々に出版した。現在、彼らの仕事場は世界遺産に指定され、往時の旺盛な出版活動を伝えている。
プランタン=モレトゥス博物館(アントウェルペン)
プランタン=モレトゥスと並んで重要な出版業者に、ヒエロニムス・コックがいた。正確に言えば、こちらは書籍出版ではなく版画出版だった。イタリアから帰国したばかりのブリューゲルはこのコックに雇われ、版画の下絵画家として仕事を始めた。その最初の仕事のひとつが連作「大風景画」だったのである。コックは世界で最初に版画の大規模生産と販売をおこなった版画商で、「四方の風」という屋号をもっていた。風となって東西南北の四方に、つまり、世界中に自らがつくったイメージを運ぼうとする気宇壮大な名前であり、事実、その版画はヨーロッパを超えて、世界中に広がっていった。コックの出版活動の時期は、イエズス会の東方布教のそれに重なる。布教には文字よりもイメージが有効である。プランタン=モレトゥスによって刊行された書籍とともに、あるいはそれ以上に、コックや同時代のアントウェルペンで制作された版画がインドや中国、そして、日本にまでもたらされたのである。日本史の知識から言えば、日本にキリスト教の布教にやってきた宣教師たちの大半はポルトガルやスペイン人だったし、鎖国以降にやってきた東インド会社の商人はオランダ人だった。だから、ブリューゲルと日本が結び付くことはない。しかし、イエズス会のために版画を制作し、他方、司馬江漢たちも目にした蘭書に付けられた17世紀オランダ版画の基礎をつくったのは、実はブリューゲルの時代のアントウェルペンだった。コックの風に吹かれることはなかったが、恩師の後押しで21世紀の日本にやってきたブリューゲルの版画を見る度に、ミラノでの不思議な体験を思い出し、高揚した気分がよみがえるのである。